新潟大学人文学部

渤海国の民族構成について
―一つの独立国家の視点から―

趙 英梅(新潟大学人文学部)

渤海国は六九八年に大祚栄が王権を樹立して以来、九二六年に契丹の耶律阿保機に降るまで十五代のおよそ二二九年の歴史をもつ。建国初期から、その民族構成は単一ではなかった。多民族構成が渤海国の性格にどのような影響を与えたのかについて考える。

渤海国建国者大祚栄は「驍武善用兵」の人物であり;その建国集団は、高麗と靺鞨の二つの民族で構成していた。靺鞨は濊貊種と純通古斯種との二つの種族に分かれるとされている。高句麗以外の中国東北部の通古斯族の総称である靺鞨は、濊貊種と純通古斯種をあわせて称し、この両者のうち西部、南部に居住していたのが濊貊であり、純通古斯はその北と東の奥に拡がっていた。

渤海国の民族構成を領土の拡大と同時に複雑になっていったと考えられる。ユーラシア大陸の東北地域の広大な領域を誇った渤海国は、具体的な地理位置によって領内の各民族の間にはかなりの文化的格差があったと思われる。興凱湖を堺に南の比較的早くから先進文化にふれてきた靺鞨諸部族と北の山林を隔てて奥の地域で先進文化と遅く出会った靺鞨諸部族に分けられる。

渤海国は存続二二九年の間、ほぼ全期間を通して、独自の年号を使っていた。渤海国の民族は、渤海国の前身である振国の建国初期は粟末部、白山部の靺鞨部族と高句麗遺民からなるが、次第に高句麗時代の旧地に戻ってきた諸部族と領土の拡大により、その民族構成は複雑になった。諸民族を統治していく上で、その絶対的権力のシンボルとして、渤海国は年号の制度を制定したのである。一世一元の年号制度は、対外的に自主性と独立性を示し、内部的には王の絶対的権力を象徴したのである。

渤海国の首都を管轄する制度として五京制がある。渤海においての五京制は、唐のまねからできあがった制度でもなければ、高句麗の五部制を継承したものでもなかった。五京性は多民族共生の国家であるからこそ、みせた柔軟性のあらわれである。五京制の確立は、まさに主体民族というものが渤海には存在しなかったことを物語っている。

渤海国は、中国王朝唐の地方政権でもなければ、高句麗の完全なる継承国でもなかった。渤海国は、時代を巧にいきた多民族構成の独立国家であった。


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