新潟大学人文学部

在満日本人文学の研究

高島 藍(新潟大学人文学部)

第一章では「満洲国」樹立以前の詩人について論じた。中国東北に渡った日本人の文学活動は、明治末年頃から関東州において始まっていた。詩の活動は活発で、安西冬衛、北川冬彦の『亜』は1924年に創刊され、短詩やモダニズム詩は日本の詩壇に大きな影響を与えた。『亜』が終刊した以降の大連では、しばらく詩誌は刊行されなかった。1929年3月、城小碓らが『戒克』を創刊する。『戒克』や『塞外詩集』に集まった詩人の作品は、短詩や、軽快さを含むエキゾチックな都市描写など『亜』のモダニズム詩の流れを受け継いでいるといえる。一方、日本のプロレタリア文学と同調するように、満洲では「山東苦力」など中国の下層民と満洲の暗い現実を描いたプロレタリア詩がうまれた。『亜』で描かれた「日本的な風土から切り離された、植民地的な、西欧と亜細亜と日本との混在した奇妙な『モダン』な風景」の大連は描かれない。

第二章では満洲国の出版制度や出版雑誌をあげ、「満洲文学」について概観した。

第三章では「満洲文学論」について論じた。満洲国初期には「満洲文芸」や「満洲国の文学」などあいまいに使用されてきたが、1936年頃を境に「満洲文学」の語が定着していった。1936年は国情の安定してきた時期で、新聞の文芸欄の拡充など文化・文芸方面の活動が活気を帯びる時期であった。1937年から活発化する「満洲文学論」を背景に「満洲文学」の語が定着していった。また、「満洲文学論」について、論者の主張した「満洲文学の主題」という点から考察を加えた。西村真一郎、木崎龍、長谷川濬らは満洲文学の意義を「五族協和」や「王道楽土」など満洲国のスローガンの強調においていた。満洲国を最大限に容認し、文学も政治に従属して「建国文学」を作り上げることを訴えた。

青木実や日向伸夫は満洲国を容認しながらも「満人もの」を書くことにより「五族協和」の現実を描こうとした。しかし満洲の現実描写は、「五族協和」のスローガンには似つかわしくない重く「暗い」ものだった。「満人もの」を突き詰めると、「五族協和」の理想と離れた被支配民族の「満人」という矛盾に行き当たる。それゆえにこれら「満人もの」を素材とした作品は、「力強い建設の響きのこもった作品」を目指す建国文学・国策文学を主張する側から否定される傾向にあった。満洲の風土を素材に選んでも、満洲の厳しい自然や困難を乗り越え、建国精神に鑑みてある種の「明るさ」が必要とされていた。建国ロマン精神を基調とした国策順応の「建国文学」が声高に主張されたのに対し、加納三郎は鋭い批判を繰り返し最終的に、満洲の現実の上にたって建設的な文学と生活の実践を試みようとする提案を行った。「満洲文学論」の意見が統一されなかったことは、言論の自由が比較的残されていたという満洲国の環境では正常なことであったといえる。しかし各種各様であった「満洲文学論」および文学関係者の視点は、戦局の悪化と戦時体制の強化に伴い強制的に戦争遂行という方向に向けられたと言える。


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