新潟大学人文学部

王延徳『使高昌記』にみられる10世紀後半の交通路に関する一考察

宮尾 美穂(新潟大学人文学部)

王延徳は、北宋の廷臣であり、太平興国6(981)年高昌国に派遣され、雍煕元 (984)年帰国した。帰国後、見聞記をまとめ、現在に伝えられたものが、一般に『使高昌記』と呼ばれる。王延徳が長安を出発し高昌国に至るまでの往路では、どのような道筋を取ったのか。かつては田坂興道氏らによって現在のエチナ川を経て、ハミに至ったという説が唱えられていた。しかし、前田直典氏によって「王延徳はオルドス地方を北行し、オルホン川流域に出で、韃靼の諸部族を訪れ、その後ハミに至った」との、いわゆる漠北経由路を打ち出して以来、その説が多くの研究者によって敷衍されてきている。

前田氏によってこの使節団は対契丹戦略の一環であったということが指摘されている。私は王延徳が通った行程には、何らかの意図があり、重点となる土地を突破しているはずであると考える。王延徳一行はなぜそのルートをたどる必要があったのか。この問題意識に立ち旅行記を読み解く際、前田氏の漠北経由説に今一度立ち返り、考察を試みることが課題となるのではなかろうか。本論文では特に王延徳の『使高昌記』の往路部分、漠北経由路について再考を試みた。

第一章では、王延徳という人物と『使高昌紀』の旅程を概論した。ついで、『使高昌紀』にでてくる「九族韃靼」という言葉に着目し、行路の往路部分を整理した。

前田氏は九族韃靼こそが10世紀後半にオルホン河流域を制した部族であることを指摘し、政治上の形勢から、王延徳の派遣目的を対契丹政策と断定している。『続資治通鑑長編』に拠ると、王延徳は行路中の諸部族に、契丹に対抗するため、招書や絹を送って各部族を味方に引き入れようとした形跡が認められるのである。

行記では、往路部分で計9族部族が登場する。これらの部族を比定することは、10世紀後半におけるモンゴル高原で割拠する諸部族の勢力状況を把握につながることになり、この点からも部族名の考察は重要である。第二章では、前田氏の論考を基に、行記に登場する部族名及びそれに関連する地名に関する考察をすすめた。

第三章では、王延徳の行路の設定は、いかなる素地の下に行われたのかを考察した。王延徳の行路はいわゆる「回鶻路」を北上したと考えられている。「回鶻路」の前身に当たるのが、「参天可汗道」であり、突厥時代モンゴル高原を経て唐の長安城と結ばれていた。

「参天可汗道」と、それとの一致が指摘される「中受降城入回鶻道」の記述を比較し、検討した。

交通路と王延徳の突破した土地の性格を把握することによって、部族や東西交通路といった問題関心に、二重・三重にも深まりを与えられる論考になりうると考える。歴史地理学的背景を有した地域を見直すという視点の有効性を指摘した。


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