新潟大学人文学部

奉天都市形成史

前田 真利(新潟大学人文学部)

本論文では1905年の日露講和条約締結から1932年「満洲国」が建国されるまでの奉天(現在の瀋陽)における都市形成について考察した。この時期、奉天の都市は奉天城、商埠地、南満洲鉄道附属地(以下付属地と略)の3地区から構成されていた。

奉天城は後金代の太祖ヌルハチによって国都に定められ、その後北京に国都が移された後も陪都として発展してきた地区であり、1905年には既に人口が18万人近くに上っていた。奉天城の構造は二重の城壁と井字型の通りを中心としたものであった。1919年張作霖が中国東北を統一し、奉天がその根拠地にされると、城壁が取り壊されて城市面積が拡大するなど急速に発展した。

商埠地は1903年の中米通商行船続約によって中国が外国人の居住及び貿易のために開放した地区である。奉天城と附属地の間に位置するという地理的好条件や、南市場、北市場の設置により商業が盛んとなった。

附属地は、もともとはロシアが中国に譲渡させた土地を1905年の日露講和条約によって日本が引き継いだものである。附属地内では日本の絶対的且つ排他的行政権が認められており、南満洲鉄道株式会社(以下満鉄と略)が行政を担当していた。満鉄が引き継いだ当時の附属地は見渡す限り草原が広がっていたが、満鉄は大規模な都市計画をたて、荒野の上に文化的都市の建設を進めた。特に1918、1919年の好況時代には急速な発展を遂げた。

これらの3地区にはそれぞれ別の行政機関が設けられており、奉天城と商埠地は中国、附属地は日本が管理していた。このことは双方に少なからず対抗心を芽生えさせたと考えられる。

経済状況については、1910年代後半は1914年に勃発した第一次世界大戦に派生した好景気と銀価の高騰に伴う購買力の増大によって好況であった。しかし、1920年以降は銀価の暴落、不当課税や日本品取扱の禁止といった排日運動、奉直戦争に派生した奉票(奉天省内で発行された不換紙幣)暴落など経済成長を妨げるものが少なくなかった。人口とそれに伴う生活必需品の増加、奉天を経由する鉄道の敷設、金融機関の充実は経済成長に多大な影響を与えた。

奉天は満洲における交通の要衝であり、以前から商業が盛んであったが、中国、日本両国の商店数の増加、商業機関の充実などからこの時代にも大きく発展したといえる。工業においてはもともと農産物加工業が中心であり、小規模で製法も原始的なものであった。しかし、1910年代後半に日本資本によって大規模な工場が建設され、1920年頃からは中国側にも見られるようになった。これら産業の発展には排日思想や中国の発展を願う国貨提唱が大きく貢献した。

奉天がこの時期に飛躍的な発展を遂げた。それは張作霖の台頭によって、もともと交通、経済の中心であった奉天がさらに政治、軍事の中心となったこと、産業の発展、鉄道の建設などによる部分が大きい。しかし、それだけではなく、日本と中国という対立する2つの国家によって、それぞれ行政機関が異なる3つの地区の建設を行ったことも大きく影響したと考えられる。


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