新潟大学人文学部

前漢武帝期の大宛遠征について

高柳 京子(新潟大学人文学部)

大宛遠征とは前漢武帝の太初元年(前104年)から太初四年(前101年)にかけて、中央アジアのフェルガナ地方にあった大宛国に、漢が二度にわたって軍隊を派遣した事件である。この遠征は、善馬(=長距離を早く走ることのできる、極めて優れた能力を持つ駿馬)の獲得をきっかけに行われたことでよく知られている。大宛遠征は単に漢と大宛二国の問題ではなく、匈奴や西域の様々な国々とも大きく関わるものであった。

先行研究において、大宛遠征は漢の西域経営全体の研究の中で取り扱われており、そのため詳しい考察がなされていない。また各人の西域経営の見方により、大宛遠征の原因や目的も異なる捉え方をされており、西域諸国からの奇物将来の一環として決行されたとする説や、漢が遠征を決行した第一の理由は、外国に軽んじられることで匈奴の位置づけが絶対化することを恐れたことであるとする説がある。

そこで本論文では、遠征の前提条件、遠征の顛末を詳細に確認した上で、大宛遠征が行われた原因と考えられる種々の要素について考察を行った。

まず第一章では、大宛遠征の前提条件である、遠征以前の漢・大宛・匈奴の関係、漢の大宛に対する認識・意図を大宛の地理的位置から考察した。その結果、漢は自国から遠く離れ匈奴の勢力下にある大宛周辺を従わせたいと考えていたこと、大宛を大宛周辺への進出の足がかりとして捉えていたことがわかった。

次に第二章で、大宛遠征の顛末を詳細に確認した。

そして第三章では、大宛遠征の背景として、「善馬の獲得」「匈奴の動き」「漢の武力行使と西域諸国の漢に対する評価」「威信保持」の四つをあげ、それぞれについて考察を行った。武帝は外国から手に入れた様々な貴重品を奢侈財とするだけでなく、外国からの使者に示して威厳を高めることに用いていたことから、大宛馬も威厳を高める道具に使われていたと考えられ、大宛馬の中でも優秀な駿馬である弐師城の善馬は、さらに威厳を高める効果があったと推測した。また大宛遠征時の匈奴政権は不安定で勢力も弱まっていたことから、漢は匈奴の妨害があったとしても大宛遠征に支障はないと判断したであろうと考え、この点も大宛への再遠征を決定した消極的理由となったとした。それから、当時の西域は、漢が武力で一国を討てば、他の国々も漢に恐れを抱き服従的態度を取るという状況であったことから、漢が一度目の大宛遠征を決定したのは、大宛を従わせると同時に西域の国々に漢の武威を示すことを企図したものであると考えた。さらに、西域の国々の漢に対する評価と、西域における漢と匈奴との力関係が、相関関係にあったことから、漢は遠征を失敗したままにしておくことで、漢の威厳が損なわれ、西域の国々が皆匈奴に従い、匈奴が勢力を強めることを恐れたとし、漢が二度目の大宛遠征を決定した背景には、威信の保持があると考えた。また、善馬の獲得や、西域の国々への威嚇も、漢の威信を高めるために行われたとした。

このように、漢が大宛遠征に及んだ理由は、段階ごとに様々な要素が考えられるが、そのうちのいくつかの要素は、西域の国々に威厳を示すことや漢の威信を保つことに繋がるものであり、これは匈奴を意識した行動であると考えられる。ここから、大宛遠征を決定したいくつかの判断の根底には、当時の対匈奴戦略があるといえる。つまり漢は、対匈奴戦争の一環として大宛遠征を行ったわけではないが、当時の対匈奴戦略に沿った対外政策の流れの中で、大宛遠征を行ったと考えられるのである。


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