新潟大学人文学部

始皇帝の東方巡幸について
―立石・刻石・祭祀に関する考察―

草野 祐里(新潟大学人文学部)

始皇帝は刻石を行なうにあたり、必ず先に石を立て、その後文字を刻している。碣石の場合は岩礁に刻している。先に文字を刻し、後から石を立てた方が楽であるにも関わらず、始皇帝がこのやり方を用いたのは、石を立てることには、文字を刻すことの他に何か意味があり、あえてこのやり方を用いたのではないかと考えた。そこで本論では、始皇帝が刻石を行なう前の石に注目し、石は文字を刻すためだけに立てられたのではない、とういことを明らかにしていくこととした。

『史記』の巻六「秦始皇本紀」と巻二十八「封禅書」には、始皇帝の東方巡幸における記述がある。第一章では、まず始皇帝が立石と刻石を行なった記述を基に、石を立てることと文字を刻むことの関係について考察した。嶧山・泰山・之罘では石を立て、何等かのプロセスを経て、石に文字を刻んでいる。琅邪・碣石・会稽の記述には、先の3つに見られるような、石を立て文字を刻するまでの間のプロセスが書かれていなかった。

次に、始皇帝が訪れ刻石を行なった場所はどのような場所であったのか、場所に注目し考察し、始皇帝が刻石を立てた場所は全て祭祀と関わりがあることがわかった。

第二章では、始皇帝が残した7刻石それぞれの刻石文について見ていった。刻石文の内容から祭祀は文字を刻す前に行なわれているため、石を立て祭祀を行ない、その後文字を刻したと考えられる。祭祀を行なうことは始皇帝にとって大きな意味を持っていたはずであるにも関わらず、始皇帝が残した刻石文に祭祀に関する記述が見られないのは、刻石文を刻んだ石そのものに祭祀における意味があったため、あえてそこに祭祀のことを刻す必要はなかったのではないだろうか、と考えた。以上より、先に石を立てることには祭祀における意味があるのではないかと考え、第三章では、石を立てることと祭祀の関わりについて見ていき、始皇帝は石を立て、文字を刻むまでの間に何を行なっていたのか、そのプロセスを考察した。

祭祀の際には生贄が石に繋がれ、供えられていた。祭祀が終わると、その石に功徳が記された。ここから、始皇帝は文字を刻すためだけに石を立てたのではなく、祭祀の際に生贄を供えるために石を立て、その後、始皇帝を顕彰する内容の刻石文を残したのだと考えることができる。これが、始皇帝が先に石を立て、その後文字を刻んだ理由である。ここから、始皇帝の巡幸において、石は文字を刻すためだけに立てられたのではなく、祭祀の一環として立てられたということが言えるであろう。


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