新潟大学人文学部

国交回復までの日中民間交流
―1962年LT貿易覚書調印まで―

泉田 裕子(新潟大学人文学部)

本論文は日中民間交流について、特に1949年から62年のLT貿易開始までの期間を考察したものである。62年までを考察の範囲としたのは、LT貿易が準政府間協定と評価され、それまでの民間交流を格段に政府間交流に近づける性格を持っていたためである。日中友好運動に携わった個人の回想録は数多く残されている。対中関係組織関係者の記録も多いが、これらは組織主導の「積み上げ方式」による交流増進を高評価する傾向にあるため、再検討する必要があると考える。

第一章では、1950年代初期に日本国内で数多く発足した対中関係組織について考察した。米国と中華民国政府から圧力を受け、日本が反共産主義政策を展開していたこの時期、各組織は日中友好運動を大衆化させたという点で極めて重要であった。この背景には各組織と野党の協力と、中国の柔軟な政策がある。しかし、民間交流や協定は何れも非政治的なものであり、政府への対中政策転換の働きかけは困難であった。

第二章では、日中間の貿易交流の展開を明らかにした。1950年代に締結された四次の民間協定に基づき、日中貿易は確実に拡大した。しかし58年、岸首相の中国を敵視した言動が中国側の反発を招き、日中交流は断絶した。その後は、中国が承認するごく少数の中小企業のみが日中貿易に関与できた。岸首相の退陣後、ようやく中国政府の態度は軟化し、保守党政治家との間で両国政府の支持を得たLT貿易が新たに始まった。これらの民間協定は、日本側責任者の推移から政府間協定に近づいていることが分かる。

第三章では、中国と日本の外交政策の変遷について考察した。中国は建国後、日本政府と民間を区別した二重の外交を展開していた。1953年の朝鮮戦争休戦以降は平和共存を唱え、経済文化交流の増進に専念した。50年代後半には政治関係の改善に乗り出した。日中交流断絶後は、野党には政府に中国敵視政策の転換を迫るよう圧力をかけ、与党には実質的な政経分離政策による関係修正を期待していたと思われる。一方、日本の対中政策の変化は首相個人の中国観に大きく関わっている。対米重視政策をとっていた保守党主流派は、社共両党との貿易に関する主導権をめぐる政治的対立から、日中貿易促進に乗り出したといえる。そして、1959年から62年までの保守党親中国派の政治家の活動は、従来の「積み上げ方式」の再開を求めたものではなく、政府間交流を始める準備であった。中国側との交渉が順調に進んだ要因は、日本側の交渉担当者と調印者の党内での影響力が大きかったためであると考えられる。

以上のことから、1949年から62年までの日中民間交流において、野党、民間組織の果した役割は日本国内の親中世論を形成し、日中貿易の道を開き、保守党政治家が政治関係修復に乗り出す際の反発に耐え得る環境を創ったことであると結論づけられる。また、民間貿易を実質的に政府間貿易に発展させた功労者に、保守党政治家を挙げることができる。


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