新潟大学人文学部

前漢後半期における対西域政策
―屯田の設置時期に注目して―

佐野 恵理子(新潟大学人文学部)

前漢武帝末期の西方進出の消極化により西域が放棄されたと考えられることが多くある。そこで武帝が大宛遠征以後、西域において設置した屯田が昭帝期、宣帝期においても実行されていることに着目した。

本稿では武帝期から宣帝期までの西域における四ヶ所の屯田(輪台・渠犂・伊循・車師)設置の目的と時期から、武帝末期からその後の時代への長期的かつ一貫した政策が見られ、その中で宣帝期の西域平定がなされた可能性を探った。それを通して前漢後半期の対西域政策に新たな側面を見出せるのではないか、と考えた。

第一章では、前漢時代、屯田が一般的にどのような機能、役割のもと設置されたのかということについて考えた。考察の結果、前漢の屯田というものは、まず積穀をすることが第一条件であったと言える。それは屯田を置いた基地自体の自給体制を整え、内地への費用負担を削減することにつながり、辺境防衛という軍事的役割が果たすことができた。さらに西域であると、屯田兵に課される任務に付随するものがあり、その上で自給体制は崩すことができないため、田作する民を徙した、と考えた。こうした屯田の役割を前漢の屯田の一般的概念とした。

第二章では、後半期、西域都護の設置までの西域での屯田から見られる政策を、第一章における屯田の定義を前提とし、その設置に関わる史料をもとに考察した。

結果として、前漢の西域政策は匈奴の動向と共に講じられてきたが、匈奴と近い車師に最も匈奴の影響力が見られた。西域への屯田の設置は匈奴、車師対策の部分が大きかったと考えられる。前漢は車師討伐に失敗していた時期に並行して、大宛遠征を行っており、その後渠犂、輪台に屯田を設けている。鄯善と車師の間に屯田で自給体制を確立することで車師、匈奴に対抗しようとしたと考えた。渠犂においては宣帝期に車師への対抗という目的で再び屯田が設置されている。車師の地を放棄しても、車師の民を受け入れる土地として渠犂は機能した。伊循屯田に関しては、昭帝期に匈奴が車師に屯田を置いて支配したことが大きな要因である。西域北道の要衝が匈奴に押さえられたことに対して、前漢は南道の鄯善を守ることが必須だったのである。こうした屯田の働きにより宣帝期に西域都護の支配が確立した。

武帝末期以来、中央からの穀物依存をなくし、自給体制を整え西域の各屯田の機能を果たすことが西域政策を維持するためには必要であった。よって後半期、西域における屯田は宣帝期の西域平定へとつながる政策の一端を担ったということが言えるのである。


2005年度卒論タイトル Index