新潟大学人文学部

戦後大連の日本人の活動
―満鉄中央試験所員を中心に―

阿部 寛子(新潟大学人文学部)

本論文では、日中戦争時代に統治する立場にあった日本人が、戦後敗戦国の立場になったとき、どのように活動したかを論じる。内地・日本がGHQによって軍事行政と民事行政が進められている時、中国東北の大連で日本人はどのような状況に置かれていたのか。これらを検討することから、日本敗戦直後大連にいた日本人の戦争贖罪の形を探りたい。

日本人の中で、中国に残留し新中国建設のために貢献した満鉄中央試験所員を取り上げた。満蒙経営に携わっていた満鉄中央試験所員が、戦後どのような活動をしたか検討するためである。日本人の活動を、満鉄中央試験所員を通して考察する上で、国際関係・外交政策と関連付けて検討した。そのため残留日本人の活動に併せ、中国の情勢も1955年まで記述する。本論文では政治状況の変化に併せて研究を進めていった。

第1章では、大連の特殊性は、ソ連軍の間接統治が行われ、国民党、共産党はソ連軍政下で非公然に政治活動を行った点にあることを述べた。大連では、ソ連・国民党・共産党の3者の活動が行われていた。終戦後、日本人労働組合が組織されソ連軍司令部・中国共産党系の大連市政府の指示を受けながらも活動した。

第2章では、中央試験所の設立目的や活動を論じ、中央試験所が植民地機関の性質を帯びていたことを述べた。戦後満鉄中央試験所は中ソ合弁企業の中国長春鉄路公司に接収された。接収後、ソ連人の監理官を迎え、文献整理やソ連軍の委託研究を行っていた。中華人民共和国成立とともに、予算が豊富になり研究を本格的に再開する。そして、残留していた中央試験所員は中国各地へと赴任していくのである。

第3章では、大連で3回行われた引揚で日本へ帰国せず、ソ連軍政府、中国人の大連市政府からの要請で留用された中央試験所員の生活を述べる。

満鉄中央試験所員の留用に対する考えで、満洲開発に携わり戦争に加担してしまい恥じている記述は丸沢常哉以外見つからない。しかし、結果的には丸沢の希望したように中国の建設に留用者が貢献している。日本敗戦前の満洲開発の情熱は、敗戦後中国・ソ連の管理下では新中国の建設のために傾けられ、今になっても日中の技術交流として情熱を燃やしている。満州開発の情熱は、時代が変わっても形を変えつつ科学発展へ繋がっている。

戦争贖罪の形を探ることはできなかったが、技術交流という形での日中友好への新たな形を探った。


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